本の部屋Blog

【ブックFOREVER #6】『帰ってきたヒトラー』ティムール・ヴェルメシュ著

[ブックFOREVER] 2016年07月04日
笑ってしまう自分にぞっとする捧腹絶倒SFホラー!?
■ただいま映画館で絶賛上映中の作品!

 2011年の現代にあのアドルフ・ヒトラーがタイムスリップ。まじかっ!
 まさかの本物登場により大混乱するドイツ社会は七転八倒の大騒ぎ。
 うーん。これはなんだかものすごい難題をつきつけられた!というのが読後感です。

 この小説、映画化されてただいまロードショーの真っ最中ですので映画館でも見られるのですが、本書の帯や映画のトレーラーに見るような「コメディ」を期待されたかたは、よい意味か悪い意味かは別として少々重たい裏切りを感じることは間違いないでしょう。覚悟して見てくださいよー!
 

■とんでもない問題作です!

  そう、本書はまちがいなく「問題作」です。

 まず、ヒトラーをこの世によみがえらせるという奇手。こんなことを思いついた人はいたかもしれませんが、実際にやるとなると幾重にも壁が立ちはだかると思います。まず、歴史学の壁ですね。ヒトラーをよみがえらせるとなると、歴史研究者からの批判にある程度耐えうるそこそこしっかりしたヒトラー像を持っていなければなりませんから、作家としてはたいへんな作業になることは間違いないと思います。しかも人類史においておそらくは悪者トップ10にランクインすること間違いなしの人物ですから、その評価も多様でたいへんなことと思います。加えて本書はヒトラーが語り手という設定ですから、生半可なヒトラー像では書けません!

 次に政治の壁ですね。ドイツではナチズムにつながるようなシンボルなどを使用禁止にしており、社会全体でナチズムをタブー視しています。そんな中で本書を出版すること自体がたいへんなタブー破りなわけです。しかも本書の内容が、まさにこのタブー破りに社会はどのような反応を示すかをシミュレートするというものですから、本書の内容も、存在も、二重の意味でチャレンジであったと思います。

( 反ナチズムのロゴマークのひとつ。)


■ネタバレ注意!

 そして本書の展開がさらに「問題」なのです。

 追い詰められて自殺するはずだったヒトラーは、1945年4月30日から軍服のまま現在へとタイムスリップします。そして彼はそのたぐいまれなる状況分析能力をフル回転させて、65年という時間の隔たりをものともせず、自らの独裁政治を再び実現するために全力で行動し始めます。

 ヒトラーは65年という月日を超えて自分がよみがえったとは到底信じないであろう人々を相手に、ひるむことも焦ることもなく自分が正真正銘のアドルフ・ヒトラーであり、偉大な総統であるという前提をまったく崩すことなく接していきます。そして相手が理解しようとしまいと大まじめで「堕落した」現代ドイツ人を批判しまくります。

 まさか本物とは知らない人々は当然「よくできた偽物」としか認識できません。「この芸人の徹底ぶりはすごい」ということで噂が広まります。これを聞きつけた某テレビ局がヒトラーをお笑い番組に登場させたから、さあたいへん。プロパガンダの天才ヒトラーの本領発揮です。しかも65年前にはなかった「携帯電話」「「インターネッツ」や「テレビ」をフル活用ですから、あっという間に人々の心に入り込んでいくわけです。

 こういう展開は、もちろん作者の創造にしか過ぎないわけないですが、一つ一つの展開が「ありえる~」という秀逸さなので、面白がっているうちにいつしかヒトラーの術中にすっかりはまっている自分を発見してぞっとする、というしかけになっています。ヒトラーの復活はともかくも、現代ドイツ人がかくも簡単に扇動されてしまうのか?作者はそのように見ていることは疑いありません。




■民主主義の落とし穴??

 ユダヤ人の虐殺をはじめとしてヒトラーとそのナチス党支配の数年間がドイツの歴史に刻み込んだものがなんなのか、それは当事者のドイツ人にしかわからないことがいろいろあると思います。あえて言うならばそうした経緯で発生したドイツ的「タブー」と「自虐史観」なのかもしれません。本書はその戦後ドイツ的な「たてまえ」がヒトラーによってぶっ壊されていくという筋書きですが、これが当のドイツ人にはおおいに受けてミリオンセラーになりました。当然、ドイツでは本書をめぐって賛否両論が巻き起こっているのですが、その微妙な心情を他国の人にどれくらいわかるのだろうかと思います。同じ境遇におかれてきた日本人にはひょっとして身近な問題であるのかもしれません。
 
 本書の著者、ヴェルメシュの仮説はおそらく、ヒトラーが帰ってこなかったとしても、同様の事態は案外簡単に起こってしまうのではないか、ということではないかと思います。みなさんはどうお考えになるでしょうか。 

 ドイツや日本に再び国家主義や独裁がやってくるのでしょうか。いや、作者が問うているのは過去に独裁政治を生み出した社会だからという問題ではないと思います。これはどのような社会でも起こりうることだと言っているのではないかと思います。作品中に作者はヒトラーに、自身の独裁がまさに民主的手続きを通して誕生したことに繰り返し言及させています。これはドイツ政治史にとっては最大の汚点とされている事実ですが、ナチス党は選挙を通じて「民主的」に国家権力を手中にしています。いまナチス思想を禁じているドイツですが、かつてナチスを大衆的に支持したことは疑いのない事実です。

 そして作者は1930年代よりも大衆的情報共有のスピード、量とその意思決定への影響力が飛躍的に増大したむしろ現代の方がこの「民主主義の陥弄」とでもいうべき地滑り現象が起きやすくなっているのではという疑義を持っていることも確かなようです。SNSで拡散される気分が簡単に支持を集め、それがメディアや企業、ひいては政治家の意思決定に影響を及ぼし、そうしたレバレッジ効果が政治的地滑りを加速するというわけです。そうしたからくりをヒトラーに発見させるというのも、この作品のおもしろいところです。 

 さらにパンチが効いているのは、だから民主主義はダメなんだとヒトラーに言わせていることです。国民の自由な選挙にまかせていると、ほら、みんなちょっと扇動されただけでナチス党に投票するじゃないか。だからこんなシステムはでたらめなんだと。未来を見通す力をもち、政治的決断力と責任感を持つリーダーに一切をゆだねることの方が、国民の幸せは実現するんだと。

 

■ワロてまうけど、この作品を読んで笑ったあなたは危ない??

 さて、政治の話しはこのくらいにして、文学論的に本作品について振り返ってみると、たいへんユニークな点があります。 

 本作品は基本的にヒトラーのモノローグです。つまり、事実を提示する客観的な語り手は登場せず、すべてはヒトラーがとらえた世界として描写されているということです。語り手は過去から来た男で、その男がぶつくさと独り言をいう場合、この男はいったい誰に向かって語っているのか??1945年のなかまたちに?それとも現代の人々に?途中で「読者」という語りかけが出てくるので読者がいることが前提ですが、その読者像はなぞです。私たち読者は、本書のヒトラーにとって何なのでしょう?そこが曖昧です。

 ところが、読んでいてその違和感はあまりありません。読者である私たちは、1945年のヒトラーの仲間でもなく、また、現代を生きる愚かな国民のひとりでもありません。いわばヒトラーによって選ばれた、彼の本音を直接に聞く権利と機会をこっそり与えられた人、ということになります。彼の毒舌や、人種差別ネタにくすっとワロてまう自分がいるわけです。そんなことができる優越感にとらえられていきます。作者の罠に見事にはまって、この本の読者である限りおそるべき人種差別主義の野望家である自分をエンジョイしてしまっている私がここにいるのです。 

 もしこれが公衆の面前でヒトラーと対話しているとするならば、ひどい人種差別発言にあなたはくすっとでも笑えますか?少なくとも良識的なドイツ人には無理でしょうし、ドイツ人でなくっても多少でも他人の評価を気にする仕事をしている人はそう簡単に笑えないはずです。とすると実は私はこの作品中に数多く出てくるヒトラーが言うところの「根性なし」の「凡人」「ばかども」の一員であることは間違いないのです。

 しかし、一読者として布団の中でこっそり読んでいる限り、「○○の豚野郎」と書いてあるのを読んでくすっと笑っても、誰もとがめません。(○○のところには具体的な民族が入るのですが、それを私がここで書くこともためらわれます。)ヒトラーを応援し、ヒトラーの暴言に溜飲をさげても誰も咎めないのです。

  匿名の読者である私と、人目にさらされた社会の一員である私の間には、大きな大きな溝が横たわっています。もちろん、どんな書物においても読者である私と社会の一員として私の間には亀裂があります。しかしこの作品ほど強烈にその亀裂を見せてくれるものはたくさんないでしょう。

  実は選挙も匿名です。そしてインターネットの世界も匿名性が高いです。いわば自宅の布団にくるまってヒトラーを応援している私こそが選挙の主体であり、ネットの主人公です。そんな国民が「民主主義」や「ネットワーク」でつくる社会とは、いったいどういう社会なのか。危ないのはヒトラーではなく、私自身だ。それこそ、本書がつく核心ではないでしょうか。