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【ブックFOREVER #2】筒井康隆『モナドの領域』

[ブックFOREVER] 2016年06月05日
神様とおしゃべりできるミステリーSF
OBPアカデミアのブックソムリエ鍋島です。

 先日、若い友人と哲学談義をしました。神の問題をどう扱ってきたかというテーマで、ライプニッツのモナド論について話しました。その日、書店で出会ったのが本書『モナドの領域』です。運命的ですが、これも筒井康隆に言わせれば遍在する超越者によって予定されていたこと、なのでしょうか??

 しかもこの本、主人公は神様です。神様と対話したい人はぜひ本書を開いてみてください。

 

■この作品のジャンルはミステリー??


 筒井康隆をあえてジャンル分けすると、一般的にはSF作家、コメディ作家でしょうか。今回紹介する『モナドの領域』はその両方の性格に加え、冒頭はミステリー仕立てになっています。ある日河川敷で女性の腕が発見される。さて被害者は誰で、犯人はだれなのか・・・。そのように読むとコミカルなSFミステリーとして楽しめます。が、どうやら作家の意図はそこにはないということが途中から明らかになってきます。

  途中からというのは、美大の西洋美術史教授に憑依した“GOD”がいきなり登場するところからです。犯人は誰だ?と普通のミステリーと思って読んでいると、いきなり神が現れて、ええ~っ、となります。そして話しは奇想天外なところへとエスカレートしていきます。

  ハナシの途中で全知全能の神が登場すると、普通はやっかいなことになります。全知全能の登場人物にでたらめを言わせるとそこで「全知全能」という設定が崩壊しますから、まあ普通の作家なら避けておきたい登場人物でしょう。しかし筒井康隆は作品のかなり早い段階で“GOD”を登場させてしまいます。大丈夫かいな。しかもこの“GOD”はかなり饒舌で、人間どもが発するやっかいな質問にけっこうべらべら答えるのですね。しまいにぼろ出るで~っ。さて無事“GOD”はぼろを出さずに自らの権威を失墜させることなく大団円を迎えることができるのでしょうか?お楽しみに。

  神様を登場させるとしても、最初からなんちゃって神様の設定だとまあ作家も気楽でしょうが、この物語、がっつり本気の神様で、”GOD”が詐称であったとするわけにはいかないストーリー展開なのです。筒井としても読者に「GODなんて言っているけどその程度か」という印象を与えるわけにはいかないはずです。人それぞれ感じ方はあると思いますが、私は筒井が見事に「神」を書ききったことにある種感動を覚えました。これはなかなかできないことです。本書の帯には作者自身の言葉で「わが最高傑作」と銘打ってありますが、そりゃ神様が主人公の作品を描ききったのであれば、それだけでも読む価値は十二分にあると思います。自分なら神を主人公にして何を書くだろうか、なんて考えながら読んでいただくと、筒井のすごさがよくわかることと思います。

 
■実は哲学書! 

 ところで、本書は実はSFでもコメディでもなく、その実態は哲学書であると言っても過言ではありません。神と人間との関係、宇宙の生成と消滅を含む歴史観、人間の存在論といった哲学の中でも根本的なテーマを軽快な言語で語っていきます。ミステリー仕立てのストーリーは実は論じるべき哲学的テーマを引き立てるために構成されていています。ここではネタバレしない程度にいくつかのテーマを紹介しておきましょう。まず本書のタイトルとなった「モナド」概念です。

 ■モナドってなんだ?

  筒井はモナドに関して繰り返しドイツの哲学者であるライプニッツ(1646-1716)に言及していますので、このモナドがライプニッツの『モナドロジー(単子論)』に由来していることは明らかです。



 ライプニッツはこの世界は、これ以上分割できない「モナド(単子)」でできていると説明しました。一見今日の素粒子理論に似ているように思いますが、かなり違います。彼はモナドには「部分がない」と言っています。つまり、かたちとしては存在していない、ゼロなわけです。ゼロなんだけど、それぞれのモナドには固有の内容があるというのです。一つ一つのモナドには異なる内容が内包されていて、しかもそれが周りのモナドと絡んでいく「欲求」を持っているというわけです。まあ、分子論的にいうならば、一つ一つのモナドには固有の自己運動がある、ってわけです。このモナドたちの絡み方で動物や人間、社会や歴史は展開していくというわけですね。そして各モナドの内容は、最初から神様によって決められていて、後から何によっても変更不可能だというのです。この「神様が決めた」「変更不可能」というモナドの性質が筒井のこの作品の重要な鍵となっているので、さしあたりそれだけ覚えていてください。

  モナドには現在のコンピュータープログラミングにおいてライプニッツとはまた違う使われ方がしています。プログラムの基本を構成する要素のことだそうです。こっちの方は私には不慣れなものですが、筒井はこっちのモナドともとれる使い方をして、いわば”GOD”が定義した変更不可の世界創造プログラムとでもいうべきものを「モナド」と呼んでいます。本書の終盤で“GOD” によって記述された世界プログラミングなるものが数式で登場します。

 しかもこれまたライプニッツに始まる哲学概念である「可能世界」という言葉が、多元宇宙論と結びつけられます。現実のこの世界とは違う展開となる可能性は無限にあるわけですね。異なる展開をしている世界のことをライプニッツは現実世界と区別して「可能世界」と呼びました。20世紀のアメリカの哲学者デヴィッド・ルイスはこの可能世界が実際にあるという理論を展開します。筒井はルイスのこの理論を介してライプニッツを多元宇宙論へと結びつけ、モナドとモナドが相互干渉してしまうという事態を、多元宇宙間の衝突による両宇宙間の裂け目という現象として説明します。なんでこんなひねり方してるねん、って突っ込みたくなるところですが、案外これがはまっていて、このあたりがSFとしての面白いところです。

  実際にこの筋書きが科学的にあるいは哲学的に真実かどうかということはさておき、哲学的アプローチから数学的問題をたて、それに解法を与えるという点でライプニッツが歴史上比類なき業績をあげたことをここで紹介しておくことは意味があるように思われます。ライプニッツは部分を持たない(量を持たない)が、神によってこの世界の始まりの時点で決められ変更不可能な内容を持つ(質を持つ)、つまりゼロであるのに存在するこのモナドを数学的に定義するために微分法を編み出したと言われています。筒井はライプニッツがモナド論の考察から微分法を編み出したことをもちろん知っているでしょう。哲学的には「神と人間の関係」「無限と有限の関係」と把握されるこの問題に数学的な解を与えることができる。筒井はこうした関係性にいまなお知るべきことが多くあることを小説の形で暗示していると思われます。

 
■筒井康隆は現象学がお好き

  ストーリーの展開の中で筒井は神を哲学的にどう解釈するかという問題についての考察を随所にちりばめていきます。アリストテレス、トマス・アクィナス、ハイデガーの業績が注目され、デカルト、カントにはやや批判的であるのも面白いところです。いわく「彼らは哲学の方法を学問的にしようとして、科学の方法論みたいにしちまった。」なかなか辛辣な批判で異論もあるでしょう。筒井はどちらかといえば現象学的アプローチに親近感を持っているようです。

 

■世俗的な問題にも切り込む「神」

  ところで“GOD”  は政治や文化といった世俗的な問題にもけっこう切り込んでいきます。そんな短視的な問題は私の出る幕ではないといいながら、案外熱く語るところがこの”GOD” が妙に暖かいと感じるところです。中でも作家と名乗る男が、売れる本を書こうとすると本当に書きたいことからどんどん離れていくという悩みを相談したときの“GOD” の回答は力強く、熱い。このあたりは筒井自身の信念が語られているのかもしれません。もし神がいてこの問題を聞かれたらどう答えるのだろうか、と関心をお持ちの方は、筒井的神の秀逸な回答をお楽しみいただけることと思います。

 ちなみに登場人物である作家の悩みに“GOD”  が答えて引用するのがジャン=フランソワ・リオタールというフランスの哲学者です(1924-1998)。この人も現象学に強い影響を受けていますね。

■『文学部唯野教授』との類似性

  さてこのユニークな哲学の教科書ともいうべき作品は、似た構成を持つもう一つの筒井の作品を思い起こさずにはいられません。それはもちろん『文学部唯野教授』ですね。この作品は、ストーリーの展開の合間に美学の講義が挟み込まれるというつくりなっていて、読んだ多くの人からこの講義の部分が難しくてよくわからなかったというご意見を聞き、中にはこの講義の部分を読み飛ばしたという人もいたようです。

しかしこの作品は美学講義の方がむしろよくできているくらいで、講義部分だけを取り出したらそのまま優れた美学の教科書になるくらいです。この小説、HIV感染者差別ではないかと指摘されたいわくつきの作品ですが、筒井作品の中では完成度が最も高いものの一つと思います。その後『無人警察』ではてんかん者差別だと糾弾されて「断筆」へと進むことになった筒井さん。幸い約4年の断筆を1997年に解除して以降も旺盛な執筆活動をしてこられました。ところが昨年上梓されたこの『モナドの領域』の帯には「おそらくは最後の長篇」などという謎の言葉が掲載されています。こちらの「ミステリー」も今後注目です。

 了